エゴや執着を手放すことの意味

思想/哲学

エゴや執着を手放すことの意味

今や「地の時代」から「風の時代」に変わり、世界の価値観そのものが大きく変わろうとしています。

その上で、もう古くなったもの、必要がなくなったものへの「執着」を手放していく、というのが大きなテーマであると言われています。  

では何を手放していけば良いのでしょうか?
そして何でも手放すことが必要なのでしょうか?

執着とは「囚われる心」

本来は仏教の用語で、何かに固執し、修行の妨げになる心の働き。
煩悩などに囚わる心であると、主に悪い意味で使われています。

本来の意味とは少し違うかもしれませんが、タロットのデビル(悪魔)のカードは、
何かに強く執着し、心が囚われた状態の時に出るようです。

悪魔といえば、自分を惑わす「外」の存在をイメージしますが、
自分を縛って苦しめているものは、自分自身の心なのだとわかりますね。

さて、こう言葉にしていくと、
執着しているものは手放し、捨てていくべきと思ってしまいますが、
執着は、悪いこと・・と決めつけることは危険です。
何を手放した方がいいのか、
そして手放してはいけないものがあることも知り、
見極めていくことが大切だと思っています。

まず、私たち大人がこれまで生きてきた「地の時代」の負の側面に、
一部の権力者が、地位や権力を守る為に、社会をコントロールするという特徴があります。
そして決められた規則やルール、つくられた常識などを利用して、民衆を縛ります。

民衆の側からしても、法やルールを重んじるエネルギーが、強く働く時代でありました。

元々日本は、自然の脅威に囲まれた島国であり、
人々が助け合って生きてきました。
みんなで決めたルールに従う習性が、元々強い民族と言えるでしょう。

そして、集団のルールに外れた場合、村八分などで迫害してきた歴史もありました。
日本人にとって、集団から外されることは、死に繋がることを意味していました。

これが、日本という民族が、過去に負った「共業」です。

結果として、これら過去の共業も大きな要因となり、
地の時代の「負の影響」を強く受けてしまっているのでしょう。

風の時代に入り、これまでの社会の不合理が、次々にめくれてきています。
しかし、世の中が改善されていくのは、まだまだ程遠いと、誰もが感じていることでしょう。

そもそも、苦しめられている私たちが、国のせいだ、ルールのせいだと、責任を自分の「外」に求めているうちは、問題は解決しないかもしれません。

なぜなら、こうした時代の変化の裏に、重要なテーマが隠れているからです。

風の時代の導入期には、共依存からの脱却、精神的な自立という、過去への決別のテーマがあります。

私たちは、国やルールに縛られてきたという側面は確かにあるものの、
角度を変えて見た場合、国や集団に「依存し過ぎ」ていたのだと思います。

日本人と海外の人々の大きな違いがここにあると思います。
今の日本人には、個人の確固たる思想や、自分なりの信念が欠けているのでしょう。
だから、正邪を見抜けない。こうだ!という強い主張もできない。
見えないところから、文句を言うくらいしかできません。
集団に従うことはできても、集団を変えていく自発的な力が、圧倒的に足りないのだと思います。

昔は良かった・・などと思い、
もはや価値のなくなった、古くて不要な形に固執していたら、まさに時代に取り残されていくだけです。
でも、新しい形を生み出していかなければ、希望の未来は訪れるわけがありません。

私たちが誰もが望む、本当の自由を手にするためには、
まずは各々が、精神的に自立をし、自分なりの信念を確立していくことが大切かと思います。

他者のせい、周りの環境のせいにしているうちは、まだまだ先に進めないかもしれませんね。

さて、執着を捨てるという言葉の中には、
自分の欲、自我やエゴまでも捨てるべきという考え方もあるようです。

次回は、私たちは何を手放すべきか、
時代の変革期は、私たちに何を求めているのか、
もう少し考えていきたいと思います。

エゴは捨てるべきか

時代の大きな変革期。
地の時代から風の時代への移行と共に、古い価値観などへの執着は捨てるべきという考えがあります。

そして自分の欲はもちろん、自我やエゴも手放していくべきとする話もよく耳にします。

しかしこれは、時代のテーマというより、
昔から語られていた、どの時代にもある 思想のように思われます。

特にスピリチュアル業界では、宇宙の真理に近づくためには、個人のエゴを捨てるところから、という考え方は根強くあるようです。

ソウルリーディングの伝統的な解釈の中にも、魂にこびりつき、膨らんでしまったエゴから生まれる強い執着を手放すべき、というような解釈がよくあります。

これらは、人間には、宇宙への帰属的欲求と、人間としての分離的欲求があると捉えます。

真理を追究し、ワンネスを求める心は、帰属的欲求から起こります。
神に近づこう、真実の悟りを得たいという考え方も、帰属的欲求から生まれると考えられます。

自我やエゴは分離的欲求。より自分らしさを求める心です。

そして、神に近づきたい、悟りを得たいと思った時、
自我やエゴがあるからダメなんだ、という方向に行くのは、わからなくもありませんね。

例えば、釈迦の時代のインドでは、苦行が流行っていました。
肉体を徹底的に痛めつけることで、煩悩や欲望、つまり現実世界に対する執着を消し去る事が目的でした。
出家した釈迦が はじめにおこなったのが 苦行でしたが、この方法では悟りを得られないとして、修行をやめました。
つまり「執着を捨てること」を やめたのです。
執着を完全に捨てさるには 「灰身滅智」
身を灰にするしかない・・
それでは幸せになれるはずがないとの結論に至ったのです。

人間には様々な欲があります。
でも、欲があるから頑張れるし、
幸せになりたいという気持ちも、一つの欲の形です。

エゴという言葉も、悪い意味にとらえる傾向がありますが、
本来は「自我」
自分を自分と思う心・・・
個としての自分の役割を感じる心です。

だから、心の中にある 何かを捨てるのではなく、
自分の生命の質を高めていくことで、より尊い目的に変えていくことが大切だと思います。

私自身も苦しんだことがありますが、
何かを手放さないと幸せになれない、こうしないと成功できない・・・
このような言葉により、義務感が生まれます。

そして、できなかったらダメなのかと思うところに、恐怖心すら生まれます。
特に精神が弱っている時は、自分の欠点ばかりに目がいき、

「これはダメなのか」
「ここが悪いのか」
「これは手放さないといけない」
「まだ何か手放さないといけないのか」・・・
きりがないのです。
そうして、どんどん自分で自分を縛り付け、自分で自分の心を苦しめていくのです。

「私が大切にしているものは、単なるエゴに過ぎないのか?」
「大切だと思っていること自体が、何かに執着しているのか?」
と自問自答を繰り広げながら、心が闇へ闇へと落ちていきました。

そして最後に感じたのが、まさに「灰身滅智」の言葉どおりでした。
執着を全て捨て去るには、身を灰にするしかないんだと。
つまり、すべての執着を捨てるためには、「生」さえも捨てるしかないんだと、体感したのです。

この時、まさにタロットのデビルのカードが出ていました。
私が、捨て去るべき執着は、囚われていた悪魔の正体は、
自分で自分を追い込んでいた、自分の心だったと気がついたのです。

そこから私も変わりました。
何が不要で、何を手放すべきかと考えるより、
「何が自分にとって本当に大切なのか」と考えるようになりました。

すぐに自分の中で、答えが見つかりました。
それからは、この答えに確信を持てるメッセージが、次々に起こってきたのです。

人は心に秘めた「大切なもの」があるから強くなれます。
その大切なものを手にしたいと願うから、心の底から、生命の力が湧いて出てくるのです。

本当に大切なものに気がついた時、自分にとって「不要になったもの」も自覚できました。
これまでの自分には必要だったもの。
しかし成長した自分には不要になった 依存心は、自然に手放せていけるようになったのです。

釈迦が辿り着いた境地も、執着を捨てることではありませんでした。
その執着を正しく見極めて、幸福へ向かうための 原動力として 生かしていく道であったと言われています。

自分が大切にしているものの為に、内に秘めた執着の心を正しい方向に導き、
それを活力としてより強く生きていくこと。

「義務感」を「使命」に変え、
自分の生きるべき道はこれだ!と強く心に定めた時・・・

すべてのマイナスも一瞬でプラスに転じていくことができるのが、
人間の持つ「意志」の力なのではないでしょうか?